講演
デザイン学とエコデザイン
竹原 あき子(和光大学教授)
デザイン学という学の字に抵抗がある。研究領域の名前に学という文字をつけてアカデミックな学問にした、という日本特有の配慮のせいだろう。本来学問の研究目的とは真理の追及であり、その真理とは文字どうり不滅の価値をもつ。
だがデザインとは科学技術と市場(生活様式)という時代とともに変動する物事との闘いに渦中にある作業であり、それに歴史的な評価は下せても不滅の真理があるわけではない。つまり、うまくいっても文化の相対的な表現でしかないデザインを生物学や哲学などのようなアカデミックな学問の体系の中に位置づけるのはむつかしい。デザイン学は学問体系の周縁にある、としかいいようがない。
もしもデザイン学、といったものが存在し、その一分野として基礎デザイン学が存在するとすればそれはデザインの存在の意味とその作用を絶えず問いなおすことだろう。つまり哲学のようにデザインされた事実の奥にひそむ意味を問うことが課題になる。別のいいかたをすれば、科学技術が教えることを認めたうえで、なぜを無限に問いなおす作業だろう。
だが哲学は科学の発達が飛躍的にもたらされた20世紀末、科学的な解明の影で息をひそめているようにみえる。もしも科学的な説明だけに満足して本質的な疑問、根源的な問いへの情熱が失われてしまったら、充足できる明日はなく、人類は自らの限界内で満足し、情報だけで動くロボットになりかねない。
デザインという作業もまた科学技術と市場の情報だけに揺り動かされ、なぜこモノのデザインが必要か、その先になにがあるかに疑問を発することはない。例えば生物学では「生命現象の進化」を追及し、遺伝子の解明にまでたどりついた。ところがなぜ遺伝子のメカニズムが生物を進化させ、それがなにを目指しなにを目的としているか、といった進化の背後にあるもの、その先にあるものはなにか、に問いを発することはない。モノのデザインの進化についても同じことがいえるだろう。
環境に負荷をかけない生産の体系とデザイン、といった問題に限っても、なぜ人類は工業的な手段で生産しつづけなければならないか、と最初に問いを発する必要があり、その問いを肯定する答えがみつかってやっと環境に負荷をかけない生産とデザインを問いなおす作業がはじまる。その最初がこれまで使用してきた量産材について疑問をなげかけることになる。ことに最新の素材の認識は新たな局面をむかえたからだ。
素材は、明解で単純なものの組み合わせではなくなり、これまでの定義は通用しない。それを描写する方法は「。。。であるモノ」から「。。。をするモノ」にかわりつつある。素材は静的なものとしてではなく能動的にとらえなければならない。それが環境にどんな負荷をどれだけかけるか、を問いなおす基礎になる。思い描いた形のためにデザイナーは素材を選ぶのではなく、素材の発明こそがデザイナーの未来の作業でもあろう。その先になにがあるか、を絶えず見定めながら。
(講演のサマリー)