基調講演
デザイン理論:デザインをリデザインするための方法
Design Discourse: A Way
to Redesign Design
クラウス クリッペンドルフ Professor Klaus Krippendorff
言語
私は言葉や文章や本を組みたてるために用いる文字のシステムを言語と言っているのではない。また私は会話のプロセスから言語を抽象化したいとも、あるいは言語を成立させているところから話し手を切り離したいとも思わない。言語を表象作用のシステムとする伝統的な考え方は、私が述べようとしている文脈としてはあまりにも限定的である。
明らかに言語は概念の源である。言語は私達の世界の知覚を形作るとともに私達の行動を方向づけている。例えば言語は、少なくとも欧米の言語は、男性と女性を区別するための選択肢を与えている。この区分を自然なものとみなせば、これら二つのカテゴリーの間にある人々を抑圧することになる。あるいは言語は私達に敬意を表わす方法を提供している。私がこれまで学んだことからいえば、日本語は英語以上に敬語表現が多い。そして結果的には日本の社会構造は西欧の社会構造と異なるだけではなく、英語を話す人にとっては途方もなく複雑なものに見える。
私達がデザインするのは言語においてである。私達はデザインの問題を言語において考えている。私達は関連する専門家のチームの中でデザインの問題について話し合う。私達はさまざまな株主と私達の計画案や株主ならではの理解の仕方について話し合うが、成功するためには、あるデザインに向けて協力し合わなければならない。この目的のために、話にそってモデル化し、ドローイングし、プレゼンテーションする。すべては私達のアイデアが遂行する価値のあることを他の人々に確信させるためである。言語はいたるところに存在する。他の人々が理解する必要のあるものを私達が創りあげる場合でさえ。
哲学者、マルチン・ハイディガー(Martin Heidegger)はかつて言語を私達の存在の場と特徴づけたことがある。このことは出発点として充分に私を満足させるものである。私達が住んでいる世界を創造し、私達が人間となるということは他の人々との言語行為にあるということを、彼の言葉は示している。
ハイディガーの指摘は少なくとも二つの読み方が可能である。
●言語は無意識に私達に話しかけるのだということ。ちょうど魚が水の知識がなくても泳げるように、私達は言語行為の多くをあまりにも当然のことと思っている。とりわけコミュニケーションが作用する時には。言語が私達に話しかける時、あたかも話すことが問題でないかのように物事について語り、あたかも言語が透明で目に見えないものであるかのように言語の内容に焦点を当てている。これが理解できれば、第二の可能性へと進むことができる。
●私達は自らの言語に気づくことができるということ。言語がはたす役割に気づけば、私達はいかに言語が私達の知覚を形作くるのか、いかにボキャブラリーが私達の注意の対象を創造するのか、どのように文法が私達の思考を方向付けるのか、そしてどのように私達が対話によって互いに関係しているかを理解するようになる。私達はまた言語行為の多様なあり方を体験し、個別の言説を区別することを学ぶ。
もし言語が私達の話している世界を実際に生み出すのだとすれば、言語を慎重に、そして効果的に用いることは、私達の生活をデザインする方法でもある。デザイナーにとって、モノをデザインするという実践から、実践を方向付けている言語をデザインすることへとシフトすることは、「デザインをリデザインすること」に等しい。このことはデザインをより高い地位に持ち上げることになる。デザインをデザインする、あるいはデザインをリデザインする言語を私はデザインの言説(Design Discourse)と呼ぶ。
言説
言説とは何か。簡単にいえば、言説とは世界を構築したり、再構築したりするプロセスに存在するあるコミュニティーの中での言語行為の特別なあり方である。三つの例から始めよう。
物理学は言説として充分に認められる。その言説は物理学者によって語られる。それは物理学者が因果関係によって客観的に計測し、分析し、理論化することができる自然の対象を現出させる。物理学はいかなる機能も、いかなる意味も、いかなる心も持たず、対象がどのように研究されているかを理解することもない、そんな因果的な対象の世界を構築している。
数学はかなり異質な言説である。数学は数学者が探究し、発展させる形式的なシステムを構築する。時々そうしたシステムは記述の数学と同様、明確で決定的と思われる所見を記述するために用いられる。純粋な数学者が作り上げるシステムは充分に定義づけられ、合理的に閉じており、一貫性があり、完全であり、数学者にとって興味ある特性を持っている限りは、純粋な数学者は応用については全く気にかけない。
医学はまた別の種類の言説である。医学は機能的な説明をおこなう立場を生物学と分け合っている。しかしながら医学は、有機体がどのように作用するかを記述することよりも、異常さを正すための方法を見つけることの方により関心がある。このことを追求することで、医学は有効に調停することによって病気やけがをカテゴライズし、なぜそうした調停が効果的なのかを説明することに成功してきた。痛み、バクテリアの伝染、癌の増殖、免疫のシステムはすべてをそうした目的を持った説明にゆだねている。
デザインに入る前に、言説が共通に持っていることについて述べておきたい。(注1)
1.言説は専門的なボキャブラリーを使用し、特定の対象やテキストや人工物を構築し、世界を現出する。言語学や文学研究や言説の分析は、コンテクストを切り離してテキストを分析してきたが、私にとってテキストの素材や人工物は単に言説の表面を構成しているに過ぎない。
2. 言説はあるコミュニティーの実践に存在し、たえずテクストを再読し、テクスト間相互関係性を創造し、人工物を再分節化し、メンバーにとって意味のあるやり方で世界や対象の領域を拡張する。言説は抽象的な対象ではなく、現実の人々がおこなうことの中に具体化される。
3. 言説のコミュニティーはくりかえされる実践を制度化する。繰り返し成功する言語行為は社会的な規範へと強化されるか、あるいは言説のコミュニティーのメンバーが依存する社会的/技術的インフラストラクチャーに刻み込まれる。典型的には、制度化された実践や進化の歴史の創り上げられた性質に気づかなければ、言説のコミュニティーのメンバーはあたかも唯一の方法であるかのように、不当な変化に対してそれらを守る傾向がある。制度は言説を躾けるだけでなく、ものごとをそれ以外におこらないようにすることもできる。
4. 言説は境界線を引く。言説はこのように自らの言語行為を他の言説の言語行為から区別し、誰がそしてどのように人々がコミュニティーのメンバーになるかを決定する。そして言説が創造する対象への関心を合法化する。このように言説は、外部からの挑戦に直面して自らのアイデンティティーを保持する。
5. 最後に言説は他の言説に対し自らを正当化する。一つの言説が他の言説による侵略を必要とするか、あるいは恐れる時、言説は自らを正当化する傾向がある。例えば要求の妥当性、実践者が得る個人的な利益、そして人工物やサービスの道徳的な価値に対して、説得性のある論証を与えることによって、言説は自らを正当化する傾向がある。
多様な言説は共通の尺度では計れない世界を創りあげる。一つの統一的な捉え方は他の問題性を概念化してしまう。例えば機能という考え方、それは生物学や医学や工学を構成するものであるが、それは物理学に於いてはいかなるリアリティーも持たない。物理学者は観察者が入り込まないような一貫した宇宙を構成する。それとは反対にデザイナーは自らが入り込み、創り変えることのできる世界にのみ関心がある。こうした多様な世界はかなり多様な人間の行動を可能にする。
ちょうど自らの言語を考えない話し手にとって真実であるように、言説は自らのコミュニティーを表わすようになる。このことは実践者がどのように自らの言語行為が目に見える世界を生み出しているかを実感することをさまたげている。彼等にとって人工物は自然であり、明らかにそうであるように思える。見るという択一的な方法は不便で、放置されたものである。そして概念化は現実が実際に存在するのに対し、熟考された第二次的なものとみなされる。ある特殊な現実における信念はこの状況を実例で示している。
言説は進化し、混ぜあわさり、衰退する。言説は支配力を求めて、互いに戦いあう。言説は適切な実践をある用途に当てたり、借用することによって、互いの境界を交差する。言説は寄生したり、宿主になったりするし、植民地化したり、搾取されたりするし、指導者となったり、追随者となったりする。言説は連続する運動の中にあり、デザインの言説も例外ではない。
今日のデザインの言説
デザイナーがおこなっていることをデザイナーがどのように話しているかによって、私達はデザイナーを知ることになる。一般的にデザイナーは新しく、改良された人工物を計画する。それは意味をつくりあげ、他の人々にとって有用なものであり、デザイナーによって称賛されたものでさえある。デザインの言説をマスターし、自らのデザインに対して耳を傾けさせるような論証を提供できる能力が成功するデザイナーとそうではないデザイナーやデザイナーでない人々とを区別する。
最近、デザインの言説は単に周辺においやられて、制度化されているだけである。デザインの言説は主として財源不足の教育プログラムにおいて教えられている。そして大学院の学位を与えているのはほんの少数である。ジャーナルは、そのほとんどが雑誌のようであり、数は少ない。ジャーナルはポピュラーであるけれども、真面目なデザイン理論や研究を出版しない。提案があるにも関わらず、広範に受け入れられたデザインの科学は存在しない。大きな研究や開発交付金はより確立された学問の味方をしてデザイン・グループを迂回する傾向がある。企業はデザインの主要な財源である。しかしデザインは企業自身の有用な手段として主として取り扱われている。
現代のデザインの言説もまた一貫性を欠落させている。あるデザイナーはアマチュアのエンジニアのように話している。しかしながらよいエンジニアはよりしっかりした地盤にいて、醜い機械を美しいカバーで隠すためにデザイナーを使う傾向がある。他のデザイナー達はマーケティングの言語を採用し、市場を拡大させるために工業製品に価値を付加するものがデザインだという考え方に巻き込まれている。その場合のデザイナーの責任は売れ行きに留まっている。デザイン教育はしばしばデザインの概念を応用美術として、そしてそれゆえ二流のものとしてみなしてきた。にもかかわらず美術という用語はインダストリーや経済学や文化的政治学や生態学にほとんどウエイトをおいていない。他の学問から自らの概念やアイデンティティーを引き出そうとするデザイナーは、無意識的にデザインの言説を植民地化させられている。
最終的にデザインの言説はほとんどレトリカルな強さを表明していない。おそらく統合的な考え方を装ってはいるが、しかし証明できる専門知識なしに、ほんのわずかなことしか知らない。そのことはデザイナーがテーブルに経験的な証拠を差し出すことのできる人々から多くの尊敬を受けさせない。エンジニアは計算を提供し、市場調査者は手の込んだ統計を持ち出す。そして人間工学者は重要なテスト結果を提供する。もしデザイナーが株主に受け入れられる言葉で自らの仕事をサポートすることができなければ、デザイナーは拒否される恐れがある。
提案されるデザインの言説
これまで述べてきたことは、他の学問の言語ゲームにおいて仕掛けられている危険性と、目的を持って、再帰的に述べることでさまざまな言説によって話されることの危険性を私達に気づかせる。デザインにとってユニークな言説とは何かの概要を述べることに移ろう。私は二つの区分を線引きすることからはじめ、そこから私が中心的な概念と考えるものについていっそう詳しく述べる。
デザイナーは世界に生きながら、世界を改善しようとする。デザインの言説の明確な特徴は可能な未来について語る能力であり、未来に行き着く方法を探究する能力であり、その方法が生かされていることに責任を持つ能力である。それゆえデザインを支える言説は過去の観察から未来を推定することを理論化することに限定されない。そのことは自然科学が充分おこなってきたことである。デザインを支える言説は薬物が人間の体に関わるように、基準的な条件を守るというものではない。デザインは他が求めるものを無視して、変化の可能性を探究しなければならない。基本的にデザインの言説は他の言説が当然と考えていることを疑問視しなければならない。デザインの言説は閉ざされていると考えられているドアをこじ開けなければならない。それゆえデザインの言説は自然科学をまねることはできない。自然科学は自らの記述法に保守的であり、自然の変わらない法則を求め、通常の状態、規則、あるいは予測を保持しようとする。デザインの言説は自然科学の主張と戦わなければならないものであるから。
望ましい未来のために調停しようとすることは、デザインの言説を工学の言説や他の変化を方向付けられた学問に近づけることになる。しかしながら機能的なメカニズムを実現することを求めたり、そうした作用を改善することを求めたりする工学ではなく、デザインは他に対して意味をなす人工物に関わっている。デザインの専門は株主に対して人工物を理解できるようにし、ユーザーに対して有用なものにすることである。そしてデザイナーを含む多くの人々の生活を改善することにある。広義に解釈すれば、デザインは人間が技術とどのように関わっているかに関心がある。多くのデザイナーはヒューマン・インターフェースが社会的で、政治的で、文化的であることに気づいているし、あらゆる新しい技術が私達の生活を変えることに気づいている。デザインの言説は新しいことを創り出すだけでなく、私達が人間中心(human-centerd)と呼んでいるものでもなければならない。
人間中心という考え方は人間工学の目的と混同すべきではない。人間工学が使用や人間の間違いや知覚的なバイアスの効果を評価する時、人間工学は明らかに人間と機械の相互作用に関わっている。しかしそれは人間工学それ自身の用語においてそうであるだけで、さまざまなユーザーにおいてそうであるわけではない。人間中心的なデザインはユーザーが人工物を使用する時の理解の多様性を包含しなければならない。一つの「正しい」理解の仕方を追求することは、人間工学や記号論や工学やビジネスやある特定のデザイナーの考え方に由来するものであり、それは他の人々の技術に対する理解を承認することに失敗しており、人間中心的な考え方ではない。
人間中心的なデザインに対する私の貢献は、株主、ユーザー、デザイナーといった人々が、技術に対してもたらす意味を踏まえてデザインするボキャブラリーと方法を開発することである。他のデザインの理論家や実践的なデザイナーとの共同作業が私に意味がデザインの中心であると考えさせてきた。意味と関わるデザインの言説は「製品意味論」と呼ばれるようになった。「製品意味論」は以下の明確な真実に基づいている。(注3)
私達はモノの物理的な性質に対して応答しているのではなく、モノが告げる意味において行動しているのである。
この真実は人間中心のデザインにとって自明のことである。
すなわち人工物を有益なものにすることのできる人々にとって、意味のない人工物は文化の中には存在しない。
人間中心のデザインが同様に導く結果は、意味の視点において人工物をデザインするデザイナーに、技術的/文化的問題に関わる言説において、これまでにない社会的重要性と力強い役割を与える。この定理はデザインの経験的な領域や、デザイナーが用いたいと考えている言語を明確にするだけではなく、デザイナーが仕事をおこなう上で必要とする規律に対してデザインの言説を正統化する。このびっくりするような事実はデザイナーを多くの技術的/文化的な開発において必要不可欠で、大いに敬われる者に変える。
この反駁できない根本原理を作り上げれば、デザインの言説は他の理論が共通する土台無しに成し遂げられないようなレトリカルな強さを得ることができる。デザインにおける専門知識によってバックアップされ、意味論的な要求をサポートする経験的な技術で補強された意味のあるインターフェースに対する充分明確化された仕事は、伝統的に「ハードな」理論とデザイナーを同等のものとみなすことになる。そのようなデザイナーは「自分達の話していることを知りたい」と考えている。
このように製品意味論は、望ましい意味を得るためにどのように人工物はデザインされるべきかについての専門知識をデザイナーに提供する。:
●何がデザインのプロの中心的な関心であったかについての明確化された視点。(この明確さが欠落していたために、デザインが他の理論によって私物化されているのは当然である。)
●他のいかなるプロも自ら要求してこなかった経験的な領域における社会的に意味のある専門知識を開発する機会。(もしデザイナーが熱心に、そしてタイムリーにこの領域を包含しなければ、疑いもなく他の理論がこの領域を包含しようとするであろう。)
●デザイン固有の科学を開発する可能性。それはデザインの実践を育て上げ、デザインの範囲を広げ、そしてデザイン言説を合法化する。
●ある特定のコンテクストにおいて、人間がどのように人工物と関わるかを学ぶかについての経験的なテストと評価技術。このような手続きはデザイナーの要求を正当化するために必要不可欠である。こうした手続きは他の理論によって用いられるものと同様確定的である。他の考察と矛盾する場合には、そうした手続き自体の重要性を保持できる。
●ある文化における技術使用のさまざまなレベルでの明確で道徳的な責任。このことは今まで言外に述べてきた責任である。
基礎デザイン学会学会誌の創刊号において、グイ ボンチーペはすぐにでもデザイン理論がいきわたらないとすれば、デザインはその運命を定めらられるかも知れないと指摘している。(注4)私はこのことを認める。私達は今その交差点に立っている。あらゆる新しい技術は日々の理解に対する基本的な挑戦を突き付けられている。あるデザイナーは衣服のブランドとして使用された自分の名前を見つけて喜んでいるかも知れないし、他のデザイナーは人間の技術の利用という未研究分野に私達を従事させうる専門的な理論を発展させることによってデザインの専門性の商業的な利用に抵抗している。私はこうした道を選択したことに対して基礎デザイン学会を歓迎する。私は探究に値するいくつかの方向を示したいと思う。
向かうべきデザイン原理
最近アメリカの科学基金(National Science Foundation)はどのようにデザインが情報化時代の技術開発に貢献できるかを探究するワークショップを支援した。(注5)これは基金に対してワークショップが提案した10のデザイン原理であり、それはきたるべく情報化社会の挑戦に対するデザインのガイドとしての10のデザイン原理である。この10のデザイン原理はデザインをリデザインするマイル標(milestone)としても考えることができる。
●物質的、情報的、あるいは組織的人工物は株主のためだけではなく、株主と共にデザインされるべきである。この原理はデザイナーが技術開発に関わることを望むすべての人をデザイン・プロセスに招き入れることを要求する。従ってデザインはもはや一人の天才の摂理ではない。デザインは協同の事業にならなければならない。それは個人の心の中でおこるのではなく、さまざまな株主のネットワークにおこるものである。デザインは意味の源としてのさまざまなユーザーを尊重する共同作業や方法論の言語を求めている。
●人工物は意味を作るために、あるいは株主にとって意味のあるものにするためにデザインされなければならない。デザインにとっての意味の重要性はすでに断言してきた。このデザイン原理は次のことをくり返して述べる。すなわちデザイナーは技術によって余儀無くされるのではなく、自明性(self-evident)、自己学習(self-instruction)、適当な使用に向けての自然なやり方、そして意味のある人間の仕事、すなわち製品意味論によって余儀無くされるのである。
●デザインは主として人間のインターフェースに関わるべきである。この原理はインターフェースを、デザインの問題の一つの新しいカテゴリーとして、すなわちデザイナーが過去に目的としてきたすべてのことを実際には含んでいる可能性があるものとして認識している。インターフェースのコンセプトは記号論がこれまでもたらすことのできなかったインターラクティブな意味論を要求している。インターフェースのコンセプトはユーザーの理解を超えた技術への普遍的なアクセスに対する要求への対応でもある。普遍的なアクセスとは工業化社会が量産を通じて解決しようとしたことに対する情報化社会の対応である。:すなわち広がる市民参加と、技術の恩恵のより平等なわかち合いに対する対応である。
●デザインは人工物が持つことのできるすべての感覚と関わるべきである。この原理はデザインの考え方の範囲を定型的な視覚からすべての他の感覚の様相へと拡張することを奨励する。例えばバーチャル・リアリティーのデザインは、ユーザーが単に楽しむだけでなく、単一の感覚が生み出す人工物以上により自然な操作が可能であるような複雑な感覚/モーターの共同作業を含む。
●人工物の変化は株主の能力や必要性や概念の多様性に適応すべきである。この原理は単一機能を考慮して人工物を能率的に利用するという工学の考え方を捨てることを提案している。その代わりこの原理はいくつもの方法で、異なる目的に対して、そして異なるユーザーによって利用できる人工物を奨励している。パーソナル化、多様なやり方、再配置、そしてユーザーの習慣への適用は人工物を多様な意味にし、異なるユーザーの生活において異なる役割をはたす人工物のあり方である。この原理は効果的なメカニズムという旧来の工学の考え方から言語のような人工物という新しい考え方への急進的な発展を意味する。
●人工物は共同作業を可能にし、多様性に敬意を払い、そして矛盾を耐え忍ぶためにデザインされるべきである。このデザイン原理は人工物の増大する社会的、伝達的特質を承認し、人工物が「正しい」方法での統一や承諾以上に、さまざまなユーザーの協力をサポートするためにデザインされるべきことを提案している。
●人工物はヘテラルキカル(heterarchical)な構造として考えられるべきである。この原理は技術の中に厳格なハイラエウキーを刻み込むことに反対するものである。ハイラルキーはユーザーをより大きな全体に従属させるものであり、規定された使用を承諾するものであり、単一の技術的合理性を取り入れることであり、自然に現れるものを抑制するものである。情報は多様性やオープン・アーキテクチャーや対話やわずかばかりの混沌に好意を示す。人々はハイラルキーの中ではなくて、ネットワークの中でうまく働く。
●デザインは公的な相場での強制的な評価の技術を必要とする。デザインは主張という経験的な正当化なしには成功しない。正当化とは言語的である。そして正当化は未来の人間のインターフェースに関わるものであるから、正当化は過去の観察に任せられない。このことはすでに前に述べた。
●人間中心のデザインは第二の秩序の理解(a second-order understanding)を必要とする。デザイナーはユーザーが理解するのとは異なったやり方で技術を理解することが分かっている。この原理は、ユーザーの理解の仕方をデザイナーが理解することを、人間中心のデザインの言説の主要な特質としている。この種の理解は技術や自然科学の言説にはないものである。こうした要求を理解することはユーザーが理解することを理解することであり、理解の理解であり、要するに第二の秩序の理解である。こうした理解は技術の通常の第一の秩序の理解とは質的に異なる。そのことはデザインの言説のきわめて重要な特性となってきた。
●デザインは絶えず権限を自らに付与すべきである。知的なガジェットからインターネットにいたる情報技術はユーザーに自分の世界を創造するための空間を提供している。すなわち自らの権利においてデザイナーとなる空間を提供している。このことは明らかに工業化時代に考えられたようなデザインを徐々に侵食している。しかしながら今や私達は一般的な人間の能力としてデザインを理解している。それはもはや特権が与えられた専門に人質を取られることはないようなものである。とりわけ情報機器のデザインにおいて、デザイナーはユーザーにデザインの実践を付与する以外にない。このような条件のもとで、デザイナーは株主の先頭にいる以上のことはできない。
こうした新しいデザイン原理のすべては、言語にあり、デザインをリデザインすることにおけるデザインの言説の戦略的重要性を強調しておく。
基礎デザイン学会の最初のミーティングで講演するために私を招いてくれたことに対し、向井周太郎教授と委員会に感謝の意をあらわして閉めさせて下さい。私はここに自分がいることを誇りに思うし、基礎デザイン学会がデザインを支える基本的な考え方やコンセプトや方法や研究を展開させうる科学を押しすすめることに専念していることを嬉しく思う。私の希望は次のようなものである。これから生まれようとする科学は他の科学のまねではなく、デザイナーを他の職業と区別するようなユニークな言語を認めるデザインの言説である。どのように科学がその対象を言語化するかを表現しない科学は科学における罠にかかって捕らえられる運命にある。そしてそれは科学が支える専門的職業でもある。私が示してきたように、デザインの言説は全くユニークなものである。デザインの言説は配慮を要求するし、しばしば頑固な判断を要求する。再び会う時、私はあなた方の探究から学びたいと思っている。有り難うございました。
注1)See Klaus Krippendorff(1995); Redesigning Design; An Invitation
to Responsible Future. Pages 138-162 in Paivi Tahkokalio and Susann
Vihma(Eds.), Design-Pleasure or Responsibility? Helsinki: University
of Art and Design.
注2)A much cited proposal is Herbert A Simon (1969), The Science
of Artficial. Cambridge, MA: MIT Press. Donald A. Schon(1983),
The Reflective Practitioner: How Pofessionals Think in Action.
New York: Basic Books, might be mentioned in contrast.
注3)Klaus Krippendorff(in press), Eine Einfuhrung in die Productsemantik.
In Reihart Butter and Klaus Krippendorff, Die Semantische Wende,
Eine neue Grundlage fur das Design. Frankfurt: Form Verlag.
注4)Gui Bonsiepe(1998), Some Virtues of Design Studies. The Science
of Design Studies0:32-35.
注5)New Design Principles, page 27-32 in Klaus Krippendorff(1997)(Ed.),
Design in the Age of Information, Raleigh, NC: North Carolina
State University.
(訳:川間哲夫)(原文は英語ページにあります。)